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ハフィントン・ポストのレビューを読んで、反射的に観に行きました。
思考不能な状態で大罪を業務として「遂行」してしまうアイヒマンを評する論説を、さらに思考停止した批判者たちによって批判される哲学者、アーレント。
映画を観ることによって、私たちのまわりでも「思考が死ぬ」状態はたくさんあることに気付かされます。

一方で、私としては一人の仕事をする女性としてのハンナの「在り」方に、実に考えさせられました。 
「思考不能と全体主義」の関係性は我々の身の回りにもよく見られ、いわゆる「大企業病」の一部を成しています。上長からの指示だから、しょうがない、みたいな。
スキャンダル的な偽装事件や違法行為だけではなく、顧客のことを考えないといった公器の一員としてどうよという態度のことだけでもなく、「本来はこうしなければ利益は追求できないでしょう?」というシチュエーションでも「上が言ってるからしょうがない」という思考停止は、いろいろなところで見聞きしますよね。

「考える生き物、人間」として生きるために、考えることをやめない哲人としてのハンナの言動、勇気には、おそらく誰しも「当たり前のことを当たり前に考えて指摘する」ことをけしかけられます。

ただ、彼女の論説の批判者となったかつての友人が放つ台詞のとおり、「苛烈」で「冷酷」すぎるんですよね、その言動が。私が西洋人でも学者でもないから、そう感じるのかもしれないのですが。

とは言いつつ、彼女の友人の指摘は、私自身がしばしば(特に飲んだ席で家族に)
「正しいと思ったら、とことんやり込めるまでやめない」
「ひどい言い方だ。キツい性格だ」
「正義感だけでは仕事はうまく進められないんだぞ」
「原理主義者だ」「理想主義者だ」
といった言葉で非難される資質でもあるんですよね。ある意味、鏡を見ているようでした。

これからも「当たり前のことを当たり前に考えて指摘する」ことをやめるつもりはないのですが、論破するのが仕事ではないので、世の中と折り合いつつ、個として生きるやり方を、まじめに考えさせられました。
 
全体主義の起原 1 ――反ユダヤ主義
ハナ・アーレント
みすず書房
1972-07-10